フェミニストアートの力

フェミニストパフォーマンスアートの挑戦:公共空間と観客に問いかける身体性とその社会への波及

Tags: フェミニストアート, パフォーマンスアート, 身体性, 公共空間, 社会変革

フェミニストパフォーマンスアートの挑戦:公共空間と観客に問いかける身体性とその社会への波及

フェミニストアートは、多様なメディアと戦略を駆使してジェンダーに関する既存の規範や権力構造に挑戦し、社会変革を促してきました。中でもパフォーマンスアートは、その身体性、時間性、直接性といった特性から、フェミニストの視点を表現し、観客や公共空間に直接的に問いかけるための強力な手段として発展しました。本稿では、フェミニストパフォーマンスアートがどのように社会に変化をもたらし、あるいは重要な議論を提起してきたのかを、歴史的な事例と現代的な文脈を交えながら考察します。

パフォーマンスアートにおけるフェミニストの視点

パフォーマンスアートは、作家の身体そのものをメディアとし、特定の時間と空間で行われる行為を作品とする表現形式です。この「身体」と「行為」への焦点は、ジェンダー規範によってしばしば抑圧されたり、客体化されたりしてきた女性の身体を主体的な表現の場として再定義する上で、フェミニストアーティストにとって特に有効でした。静的なイメージに留まらず、生きた身体が社会的な文脈の中で動くこと、そして観客との間に一回性の経験を共有することは、従来の芸術制度や社会構造への挑戦となり得ました。

1960年代後半から1970年代にかけてのフェミニズム第二波の盛り上がりとともに、パフォーマンスアートはフェミニストアーティストにとって重要な表現手段となっていきます。キャロリー・シュニーマン、マーサ・ロスラー、ヴァリー・エクスポートといった先駆者たちは、自身の身体を用いて、女性の経験、労働、セクシュアリティ、そしてメディアによる表象の歪みをテーマにしたパフォーマンスを発表しました。

例えば、キャロリー・シュニーマンの1975年のパフォーマンス《Interior Scroll》では、作家が自身の膣から巻物を引き出し、そこに書かれたテキストを読み上げるという行為を行いました。これは、女性の身体内部からの声、男性中心的な言語や創造性概念への挑戦として解釈され、当時のアート界における身体、性、芸術性のタブーに切り込みました。

マーサ・ロスラーの1975年のビデオパフォーマンス《Semiotics of the Kitchen》は、アルファベット順にキッチン用品を無表情に、時に暴力的に扱う作家の姿を映し出します。これは、女性が囲い込まれる家庭空間と、そこで強いられる反復的な労働を記号論的に分析し、日常に潜む暴力性やフラストレーションを浮き彫りにしました。これらの初期のパフォーマンスは、個人的な経験を政治的なものとして提示し、女性の身体が置かれている状況に対する新たな認識を促しました。

公共空間におけるパフォーマンスと社会への問いかけ

フェミニストパフォーマンスアートのもう一つの重要な側面は、美術館やギャラリーといった制度化された空間を越え、公共空間へと進出した点にあります。公共空間はしばしば男性優位の領域であり、女性の身体や行動は制限や監視の対象となりがちです。こうした空間でパフォーマンスを行うことは、その空間自体の性質や、そこで働くジェンダーによる権力関係に直接的に挑戦することを意味しました。

ヴァリー・エクスポートの1968年のパフォーマンス《Tapp und Tastkino》(直訳すると「触れて感じる映画館」)は、作家が段ボール箱を胸に装着し、その中を観客が触れるというものでした。ウィーンの街頭で行われたこのパフォーマンスは、映画における女性の身体の視覚的な対象化(スコポフィリア)に対する挑戦であり、触覚という別の感覚器を用いることで、観客(多くは男性)の身体と規範的な知覚に揺さぶりをかけました。

ロサンゼルスで活動したスザンヌ・レイシーとレスリー・ラボウィッツは、1970年代後半に女性に対する暴力やレイプをテーマにした一連のパブリックアートプロジェクトを行いました。代表的なプロジェクトである《Three Weeks in May》(1977年)では、ロサンゼルス市内で発生したレイプ事件の場所を地図上にスタンプで示すとともに、女性による自己防衛ワークショップや集会を開催しました。アートの領域を超えたコミュニティとの協働やメディア戦略を組み合わせたこれらのプロジェクトは、単なる芸術表現に留まらず、社会的な問題に対する直接的な介入として機能し、公共の意識を高め、都市における女性の安全に関する議論を促しました。

これらの事例は、フェミニストパフォーマンスアートが、身体を媒介として、ジェンダー化された規範や社会構造が浸透する公共空間に直接的に働きかけ、観客や社会に対して問いかけ、意識の変容や議論を誘発する力を持っていることを示しています。

現代における遺産と展望

フェミニストパフォーマンスアートの遺産は、現代アートの実践にも引き継がれています。グローバル化、デジタル化が進む中で、パフォーマンスアートは国境を越え、オンライン空間へとその活動の場を広げています。現代のアーティストたちは、身体、テクノロジー、社会問題を組み合わせ、新たな形でジェンダーや権力に関する問いを投げかけています。

また、パフォーマンスアートは、アクティビズムや社会運動との境界を曖昧にしながら、ストリートデモや政治的な集会における身体を用いた直接行動としても現れています。これは、初期のフェミニストパフォーマンスが持っていた、アートを単なる表現ではなく、社会を変革するためのツールとして捉える視点の継続と言えるでしょう。

批評理論の観点からも、パフォーマンスアートは身体論、ジェンダー論、クィア理論、都市論、メディア論など、多岐にわたる議論の対象となっています。ジュディス・バトラーによる「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」に関する議論など、身体の「行為」がアイデンティティや社会的なリアリティを構築するという考え方は、フェミニストパフォーマンスアートの実践と深く共鳴します。

結論

フェミニストパフォーマンスアートは、その発生以来、身体という最も個人的でありながら、社会的に構築された存在をメディアとして用い、ジェンダー規範や権力構造に挑戦し続けてきました。美術館という閉じた空間から公共空間へとその領域を広げることで、より多くの人々や社会全体に対して直接的に働きかけ、意識の変容や議論を促す役割を果たしています。

キャロリー・シュニーマンやヴァリー・エクスポートによる身体の解放、スザンヌ・レイシーらによる社会問題への介入など、歴史的な事例は、パフォーマンスアートが単なる芸術形式に留まらず、社会変革を促すパワフルなツールとなりうることを証明しています。現代においても、フェミニストパフォーマンスアートは進化を続け、新たなメディアや文脈の中でジェンダーに関する重要な問いを投げかけ、社会に波及する影響力を持っています。その実践と理論的な探求は、今後もアート、社会学、ジェンダー研究といった多様な分野において、深い洞察と議論の源泉であり続けると考えられます。